未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

「僕はこうする」の世界

付き合う人の風通しには気を配っておいたほうがいい。これは僕が思春期に経験したことから学んだ知恵。


僕が高校時代まではそれほど代わり映えのしない学生生活を送ってきたように思います。部活ではチームに貢献したかったし、勉強だっていい点数を取りたかったから、それが退屈な生活だった訳ではないけれど。学校でも部活でも目標さえあれば、毎日はちょっとだけ刺激的でした。だけど、そうやって立てた目標のその先が、当時は全く見えていなかったんですね。それは僕だけではなく、仲の良かった友達たちも当然のように将来が見えていなかったよう。


学校と同じくらい、学生時代の僕たちにとって重要な家庭環境。僕の過ごしてきた環境は保守的というか閉鎖的な雰囲気があった。お寺の住職である父。祖父母も母もお寺生まれ。親戚だってそう。仏教もお寺も好きじゃなかった僕にとってはなかなかのハードモードだった。「〜するのが当たり前」という考え方がスタンダードな環境は、僕たちから”考える”という営みを奪います。もちろんそのことに気づいたのは、地元を離れてたくさんの人とのたくさんの出会いを経験した後。この時は漠然とした居心地の悪さだけを感じていた気がします。


学校と家庭。限られた人間関係の中で生きていると、そこにあるシステムや考え方が全てだと錯覚してしまいます。本来あるはずの無数の選択肢が見えなくなってしまいます。するとだんだん誰かの「こうしてほしい」「こうなってほしい」という願望が束になっていき「普通は〜すべき」「普通は〜あるべき」という束縛に聞こえ始めます。視界が制限された環境にいる人間は、その視野が急に晴れることはそうありません。これをクリアにできるのは、自分とは全く違うルールを生きている人間と出会うことにほかなりません。


自己責任論に関する意見をいろんなところで見かけます。責任の所在とミスに対するサポートの有無は分けて考えるべきだ、というのが僕のスタンスです。ただ、暮らしの中にある大小たくさんの選択肢は常に自分の手にあるというのも事実です。


「普通〜でしょ」「〜は常識だ」という世界は人から主体性を奪ってしまいます。僕たちはどんな環境であっても「僕はこうする」の世界の住人であることを忘れてはいけない。


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