未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

お寺のアップデート

日本で初めてお寺が建立されてから約1300年。実はこの間、お寺はその形を変えながら続いてきました。その最も初期の頃、仏教は国家の安寧を占う思想として輸入しました。当時は国家の運営に対して祈りや儀式が求められていた時代。そのため当時の寺は、国家鎮護を担うエリートの養成と排出を担う高等教育機関でした。


時を経るごとに仏教の輸入と研究がさらに進みその全容が明らかになり始めると、寺は仏道を求めようとする修行僧の研鑽場所としての役割を担い始めます。これは仏道を志す個人にとっては申し分ない環境でした。しかしこの後、日本仏教界に大きな変革の時が訪れます。


一部の僧侶が山を降り市井の中に仏教の価値を求め始めたのです。それまでの寺院は修行僧のために用意された場所でしたが、次第にその裾野を広げ民衆との接点を求め始めます。そこは仏教が担保された場所として、僧侶をはじめ様々な身分の個人が交差する空間でした。江戸時代に入ると幕府の管理下に治められながらも、寺子屋などを通じて市民教育の一端を担うようになります。こうした歴史を歩んできた日本仏教ですが、その最大の特徴は社会のニーズに伴ってその輪郭を大きく変えてきたことに他なりません。

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さて、今では市井のど真ん中にあるお寺ですがその役割というものを改めて考えてみたいと思います。


現代では、これまで立派だと思われてきた生き方が行き詰まりを見せています。男は大学を出て一流企業に就職、あるいは家業を継いで家を守るもの。女は結婚し、家庭に入って子を産み育てるもの。そして今、そんな人生観に共感できなくなった、あるいはできなかった個人がインターネットを通じて声を上げられるようになりました。


「私のやりたいことはもっと他にあるはずだ。」


そうした小さな声の広がりが実感と共に認められながら、私たちの多様性は生まれはじめました。こうした「個人のあり方」が尊重される社会は、一見素晴らしく思えます。自分の好きなように生き、自分そのものが社会から承認され、自分のなりたいものになれる社会。これは常に自分にとっての最善の選択肢を自分で選び取れる社会です。


ですがこうした環境にも生きる難しさは潜んでいます。生き方に正解はないと言われる時代では、自分にとって価値あることが、他人にとっても同様であるとは限りません。それは第3者からの承認を得づらい時代と言えるでしょう。


自分にとって何が良い人生なのか。どの選択がベストなのか。私たちはその判断を常に自分が握っているということを、今まで以上に直視しなければいけません。だからこそ今私たちに必要なのは、人生の軸となる思想や価値観を育てることであり、自分とは異なる他者の人生観に対して寛容であることだと思います。


そもそもお寺とは、生きる意味を模索する個人が主体的に関わりあうネットワークのこと。職場・学校・家族の関係から「1個人としての人間」に立ち返り、新しい関係性に出会える場です。そこでは自然と自分の常識の外の世界に触れる瞬間を伴います。それは必ずしも心地いいものとは限りません。しかしその経験は、今目の前にあるシステムやルールが全てではないことに気づかせてくれます。新しい考え方をもたらしてくれる多様性に富んだ人間関係は、人生を豊かにする上で欠かせないものだと言えるでしょう。


そんなことを考えているうちに、今僕が関わっている寺をこうした思想や価値観を育む場として機能させれば面白いんじゃないかと思うようになりました。そこでは様々な世代や人生が横断し、その関わりの中で自身の思想や価値観を磨き上げる仕組みが必要です。そんな文化を育てていきたいと思います。