未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

タトゥー、アイデンティティー、そして仏教。

タトゥーの是非に関する議論が、ときどきタイムラインを賑わす。

これまでは、ギャングや犯罪者を連想させるイメージが強かったタトゥーだけど、今ではファッションや、自分自身を表現する手段として流行している。国境を超えた人の移動が活発になり、それに伴って、私たちが暮らす国や地域での人の多様性が高まる。そろそろタトゥーのことを真剣に考えてみる時期になのかもしれない。

さて、少し前に読んだ『WIRED(vol.30)』という雑誌の記事に印象的だったものがあるので、紹介しようと思う。

f:id:yosh1nobu:20181025231315j:plain

そこに登場した TONY GUMという21歳の女の子は、南アフリカのケープタイン在住のアーティスト。同誌が主催する『WRD.IDNTTY』というイベントに出席するために初めて東京を訪れた。そんな彼女にいくつかの質問を重ねながらそのアイデンティティーに迫った記事だった。

トニーのうなじには、タテにまっすぐ伸びたタトゥーが彫られている。
==中略==
「首のタトゥーは、背中まで鎖骨に沿って伸びているの。これには、顔を上げて背筋を伸ばして自身の道をまっすぐに歩くという意思を込めたの。自分は、そうした自分の理想の姿とは真逆の人間だから、そうありたいという思いを忘れないように」(原文一部抜粋)

彼女のルーツであるコサ族には顔や腹部に傷をつける習わしがある。しかし、今では一般的ではなく、彼女の母親はトニーのそうした振る舞いに対していい顔をしていないのだと言う。けれどもトニーは、自身のタトゥーを誇りに思っているようである。


僕個人としては、彼女のタトゥーに対する考え方は興味を惹かれるところがある。彼女の場合、その意味合いを内省的なものとして取り入れている点が興味深い。タトゥーを表現として捉える見方がある以上、人目に触れる場所に彫り、対外的に主張するようなスタイルが一般的なのかもしれない。しかし、彼女は自分の弱さを受け入れつつ、自分のあり方をより良いものにしようという意味合いを込めた。コサ族としての私、女性としての私、世の中に何かを表現したい私。さまざまなアイデンティティーが彼女の中に渦巻いているのかもしれない。

そんなことを考えていた折、ふと仏教にも通ずるところがあるのではないかと考えるようになった。

仏教の中でも一般的な行の中に念仏というのがある。念仏とは文字通り、仏の名を唱える行為である。
基本的に、その行為自体が何を意味するのかは教義の中できちんと定まっている。それとは別にその行為を私がどう受け止めているのかという問題が存在する。

僕自身の理解はこうだ。
仏とは、智慧と慈悲の象徴として描かれている。

智慧:変化するものを正しく認識しようとすること。
慈悲:苦を抜き取り、楽を与えること。

つまり念仏には、「智慧」や「慈悲」の思想を通して自分の姿を再認識するという意味合いを持つと僕自身は認識している(全ての場面においてそうではない)。目の前で起こっていることをバイアスを入れずに観察できているのか。世の中や他の人たちに沿う姿勢でいるのか。それらを思い浮かべることで、理想の姿とは程遠い自分自身を明らかにしていくのである(ちなみにこの解釈には、僕のバイアスがかかりまくっていると思われます)。

そう考えると、自分自身のありたい姿を通して自分を省みるという機能は、念仏とタトゥーの両者に共通するのかもしれない。

彼女の言葉を通して、自分のルーツや宗教に自らのアイデンティティーを託さなければいけない時代は終わりつつあるように感じる。生まれるときに背負ってきた何か、自分の努力では変えられない何かに自分のアイデンティティーを我慢して添わせる必要はない。個人主義と多様性の時代において私たちが手にしたのは、自分自身のアイデンティティーをみずからの手で更新していく自由である。


ちなみに、タトゥーの歴史・文化的背景をざっくり理解したいのなら、NETFLIXのこの動画がオススメ!
NETFLIX『世界の今をダイジェスト』

f:id:yosh1nobu:20181025231320p:plain