未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

お寺が嫌いな僕が、お寺で働き始めました。

お寺で働き始めました。
お寺に生まれたことをきっかけに「寺もやりようによっちゃ楽しいか」と思えたのがその1番の理由です。

ここに来るまでは本当に紆余曲折しました。
たぶんこれからも紆余曲折の人生が待ってるんでしょう。

というのも、家業を継ぐことに対してストレスを抱える人はたくさんいて、例に漏れず僕もそうでした。

これは実は、お坊さんでもそういったストレスを抱えている人は(肌感で)少なくありません。そしてこういう人はだいたい2パターンに分けられます。

・家業(事業内容)そのものが嫌いな人
・家業を継ぐことを強要されることにストレスを抱える人


結局、このストレスから逃れるための解決方法はいたってシンプルで、家業が嫌なら継がなければいいし、強要されるのが嫌なら継がなければいいんです。

ある学者によると「選択権を持つことは生き物の基本的欲求である」ようです。ある時期に達した子どもには、段階的に親の制約から解放し、彼ら子どもたちに自己決定権を与えていかないと、健康問題を含む様々なリスクが生じるようです。

選択の科学 コロンビア大学ビジネススクール特別講義 (文春文庫)

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僕も最初は「継ぎたくない人が継いでも誰も幸せになんねーよ」と声高々に叫んでましたが、家族や親戚、檀家の方々に対する良心の呵責がどうしても発動してしまいます。そこで「仏教のことを勉強してみて、それでお寺をやりたいと思えるようならやってみるか」と思い、勉強することにしました。

仏教は自分の生き方とかあり方を見つめます。だから「何のためこの命を使うのか」といった問いにも直面します。重要なのは、自分で考えて自分の答えを出すことで、誰かに迎合する意味も必要もありません。

仏教を知れば知るほど、人生自分が家業を継ぐ必要がないことが分かってきました。
お寺を継ぐことを強要してくる人たちに対して、僕自身の主張の正当性をその仏教が支えてくれてることが矛盾していて痛快でもありました。

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その一方で、生き方に対する「終わりを意識した大局観的な人生観」って伝えていく価値あるなーとも思えてきました。今まで出会ってきた人を思い返してみても死生観を持ってる人は概して、かっこいい人が多いなと思えたのも1つです。

そういった経緯でお寺でしばらく働くことになりました。

そんなこんなで、家業に対してある種のやりがいみたいなものが生まれ、継ぐことを自分で選んだんだと自負しています。(自分に言い聞かせるつもりで)

ま、おちこんだりもしたけれど、私は元気です。

そういうことです。