未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

世界から自分が消えたなら

僕が死んだら...世界は変わるのだろうか。

映画「世界から猫が消えたなら」の中で、主人公が自問する問いです。

あらすじ:
ある日突然「脳腫瘍」と告げられ、余命宣告を受けた30歳の郵便配達員は、突如現れた自分とそっくりな悪魔から寿命は明日と告げられます。悪魔は寿命を延ばすための取引を僕にもちかけます。
それは、世界から何かをひとつ消す代わりに、1日の命を得ることができるというもの。
生きていたいと望む反面、大切なものがなくなっていく葛藤の中で、かつての恋人や親友、家族とのつながりを確かめながら命と向き合う僕の姿を描いています。大切なものと引き換えに手に入れた一日で僕は何を感じて、何を思うのか…切なくて幻想的なヒューマンドラマです。*1


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死ぬことと生きること

「死ぬ」というのは、仲間がいる世界から自分1人だけがいなくなってしまうような、そんな感覚でしょう。

この映画で消え去ってしまうのは死んでしまう僕ではなく、自分以外の他者。かけがいのない時間を共有してきた恋人や親友とのつながりが悪魔によって消されていきます。そのつながりが、現実世界から消えてしまう虚無感に主人公はさいなまれます。

自分が死ぬことを先延ばし1日の命を得ているようで、実は主人公の心の中にある大切な人とのつながりが消されるような虚無感。

目に見えるつながりが消えてしまったからこそ、つながりがあったことをさらに感じる主人公の心の動きが映画を見ていてひしひしと伝わってきました。

残念ながら僕は、ものや人への有り難みってのは、それが相対化されて初めて気づくことが少なくありません。

「何千本のバラを植える僕たちが探し求めているものは、実はたった1本のバラやほんの少しの水の中にあるのかもしれない」(『星の王子様』)って言いますけど

...ほんま、それな。

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親を1人の人間として見ることのススメ

主人公と両親のつながりは、主人公にとって最も特別でかけがえのない関係として描かれていました。

母親を慈しむ主人公の姿は素敵だなーなんて思いますけど、その一方で自分を子どもとして、当事者として考えてみると主人公には全く共感できませんでした。

親子関係は複雑なものです。親を1人の人間として見ると同情することもあるけれど、自分の親として見るとなかなか割り切れません。

一般的に映画で描かれる親、特に成人した子を持つ親っていうのは、年齢をそこそこに体力的な衰えやそこはかとない寂しさを抱えた1人の人間として客観的に見ることができます。だから同情、共感を得られます。

でも自分に置き換えるとなかなかそうはいきません。

この映画は、僕の友達と2人で観に行ったんですけど、そいつは親を手助けしたいという想いで新卒で入社した会社を退職し、地元に戻ってきました。

特に僕らは互いに同じ病気で苦しむ父親の姿を見ているもの同士なので、映画を見終わったあと、自然と家族や両親に対する想いや距離感の話になりましたが終始「頭では理解出来るけど、全然共感できひんな〜」と。やっぱり親子関係にはいろんなあり方があります。

親、子、生まれてしまった事実は変えられませんが、そういう記号を捨てて、親を超客観的に見てみるきっかけとして映画ってのはいいと思います。

どうでしょう。