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未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

言葉に閉じ込められた人間関係

以前、僕が好きな仏教哲学を3つほど紹介しました。

yosh1nobu.hatenablog.com


中でも「日々の生活で意識しなくちゃな」と僕が特に思ってるのが正見。今回はその正見<あるがままを見る>について「言葉(名詞)と人間関係」を中心に考えてみます。


僕たちがコミュニケーションを取るときもっとも頼りになるのが言葉。

自分の想いや考えを形にし、それを人に伝えたり相手の気持ちを汲み取るために欠かせないものです。

ですがその言葉に対して無意識でいると僕たちは言葉に支配されてしまいます。


人間関係を表す言葉(名詞)はたくさんあります。
「家族」「友人」「恋人」「先生」「同僚」.......

どれも人と人の関係を表すことができる便利な言葉ですが、
僕たちはこれまで築いてきた人間関係からその枠組みを作り、これから出会う新たな人間関係をその枠組みに押し込んでしまいます。

僕たちの人との距離感っていうのはゼロかイチかの2進法的に分類できるものでもないでしょう。


2013年に公開された『そして父になる』という映画があります。
eiga.com


息子が出生時に病院で取り違えられた別の子どもだったことを知らされた父親が抱く苦悩や葛藤を描いた映画です。「血縁」か「これまで過ごしてきた時間か」という葛藤の中で、それぞれの家族が苦悩する様子がまざまざと伝わってくる作品だったんですが、問題は「どちらの子を家族として迎え入れるか」言い換えるなら「どちらの子を家族の枠組みに取り込むか」という点にあるようです。

もちろん互いの家族の教育方針が違えば、家庭の経済状況も違うだろうし、どういう決断であれ100%心から納得できるものでもないでしょう。

けれど人との距離感を枠組みに押し込むことができないからこそ、仲のいい友達とそうじゃない友達の間のグラデーションが緩やかであるように、目の前の人を人間関係の枠のどこかに閉じ込めてしまうのはもったいない。

目の前の人を「ただその人なんだ」と認識できれば、人との繋がり方もきっと変わってくるかもしれません。


1人1人の個と向き合う多様性社会のいま、性別や国籍で人を判断するのは違うんじゃない?って考え方は少しずつ浸透してきたようです。

でも、もっと言えばそういう肩書きや記号はもっと身近なところにあるかもしれません。そういう肩書きや記号はきっと言葉と一緒にあるんだから、言葉と向き合うことが1人1人をあるがままに見つめるヒントになるかもしれません。


話はちょっとそれますけど、「新聞紙」って言葉を聞くとメディアとしての役割を想像しがちですけど、あれって紙飛行機に変身したり、丸めて刀に生まれ変わったり、窓拭きで活躍したり、焚き火の火おこしで活躍したり、すごく自由な使い方ができますよね。

僕が今回伝えたかったのは実はそういうことで、人との付き合いでももったいないことしてる人もたぶんいるはず。そういうときはちょっとだけ見方を変えてやればいい。

人と人との関係を定義して、ガチガチに固めるのはもったいない。

こんなふうに「ありのまま」を見ようと、世の中にある言葉や名前を疑ってみると結構おもしろい。

千尋だろうが千だろうが、本質的には変わらない。

理由もなく会える人もいれば、
理由がないと会わない人もいて、
理由を作って会いたくなる人もいるってだけのこと。

最後関係ないけど。

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