価値が生まれるしくみについて
先日「ものの価値は、心が決める」というテーマの映画の自主上映会を開催しました。
価値という言葉はとても概念的な言葉で、その全容を正確に理解するのは非常に困難です。以前このブログでもこんなエントリーを書いたんですけど、結局のところ僕もその言葉の輪郭はぼやけたままで正確に捉えられていません。
辞書にはこんなふうに記載されています。
”価値”
物事や行動がどれくらい有用であるかという程度。値打ち。(明鏡国語辞典)
どれくらい有用か。
問題はそれが誰にとってなのか、ということです。
よく社会的価値という言葉を耳にしますが、社会という言葉は時々、個人を置き去りにします。「この問題は、社会全体でもっと....」みたいなコメントを見聞きした時、その言葉の話者がその”社会"に内在していないかのような気がします。
どれくらい有用か。
だからそれは人によって違うでしょう。喉の乾きにあえぐ人と今の僕らとでは水の有用性は全く違います。
人生を最大限に謳歌している人と苦悩に満ちた人生を歩んでいる人とでは、宗教的救いが果たす役割が違うのも僕の実感するところです。
つまり物事/行動と”自分”とを結びつける関係性の中に価値という概念が存在する。
今回の映画上映会ではそんなところを落とし所にしました。
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じゃあその価値観ってどうやって形成されるのかってところなんですけど、やっぱり幼少期に多くの時間を過ごす家庭の環境は、個人の価値観にかなりの影響を与えているようで、閉鎖的な家庭環境であれば親や同居人の影響力は良くも悪くも非常に大きく、多くの価値観に触れることのできる環境で育つと、柔軟で複数の価値観のものさしを持つことができる(小学校教員談)ようなのできっとニートや引きこもりと言われる人たちにも素晴らしい価値が...
...っていう良心的なメッセージで終わろうと思ったんですけど眠くなってきたので寝ます。
それにしても「価値観」って言葉、僕が思っている以上に深い言葉のようです...