未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

「見ること」は目の専売特許じゃないかもしれないって話

代表的な仏道修行の中に「正見(ショウケン)」というものがあるんですけど、

これは身体と精神を鍛え上げる修行じゃなくって、ある種のマインドセットみたいなものなんですね。

おそらく多くのお坊さんに仏道修行における心がけは、と問えば、この「正見」かもしくは「利他行」あたりが最初に出てくるんじゃないかなと思うんですけど、

「正見」ってのは、ものごとを客観的に捉える訓練のことで、平たく言えば、目に見えているものをそのまま捉えなさいってことです。

普段僕らって、見たものの良し悪し(好き嫌い)を知らず知らずのうちに判断していて、

見たものや出来事に自分なりの意味を与えているって言われてるんですけど、そのことに一旦気づきましょうよ、ってのがこの「正見」ってやつです。


で。

今回ブログを書こうと思ったのは、このものの捉え方に、新たな気づきがあったのでそれを皆さんと共有したいと思ったからでして、

これまで僕は、今言った意味で「正見」ってのを理解してまして、つまりは、ものごとを客観的に見る訓練のことだと認識してたんですね。

例えば、デートの約束をしていた日に雨が降ったら、「天気最悪だな」って思うんですけど、そこにある事実は雨が降っているということだけなんだと。

あるいは皆さんも経験あると思うんですけど、新聞紙って、それを新聞紙(メディア)だと捉えるのはたぶん小学生くらいからの話で、ガキンチョにとっての新聞紙って、飛行機であり、武器でもあり、防具(兜)でもあるんですね。仏教っぽく言えば、新聞紙が存在していると思っているのは、それを新聞紙だと思い込んでいる人だけだってことです。


こないだ、ある興味深い本を手にする機会がありまして、これを読んだ時思わずハッとしてしまったんですけど、

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この本は、視覚障害者の方の「世界の眺め方」を教えてくれます。

その中でちょっと考えさせられた表現っていうのがあって、彼らを視覚以外の情報源を持つ独自の「文化」を育んできた人だと表現している点です。


この本は、ダイアローグ・イン・ザ・ダーク(DID)というワークショップ(WS)を手がけるNPOから出されてるものなんですけど、

このDIDー暗闇の中の対話ーというのは、照度ゼロの暗闇の中で8人くらいの参加者が協力し合いながら進める対話型のエンターテイメントでして、

日常では体感することのできない、この照度ゼロの空間の中では、暗闇に目が慣れることは一切なく、自分の手ですら認識することのできない空間なんです。

そして、そんな参加者から視覚を奪ったこの空間を案内してくれるのは、視覚障害者と呼ばれる人たちです。

僕も数年前に参加したことがあるんですけど、通路(もはや迷路なんですけど)を歩いたり、畳の部屋で皆でこたつに入ったり、参加者全員でかくれんぼをしたりしたんですけど、これ全部、暗闇の中なんですよ。

あの時の経験や学びなんかを思い出しながらこの本を読み進めたんですけど、この本が(もといこの経験)が提起してたのは、目には映らないものへの気づきだったんですね。視覚を断つとそれまで見えなかったものが見えてきます。隣を歩く人の鼻息、土のやわらかさ、扉を開ける音、人の温度とか。

目で何か見ようとすればするほど、見えないものをさらに見えなくしてしまうというある種のパラドクスを肌で体感しました。

彼らのライフスタイルは、僕たち視覚に頼りきっているそれとは全く違っているんですね。



もう1冊、これに関連した本を紹介します。

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この本曰く、人間ってのは外から得る情報のうちの80〜90%が視覚に由来しているらしいんですけど、

この視覚という感覚を取り除いてみると、人は世界をどう捉えるのか、ってことを視覚障害者へのインタビューや著者が彼らと過ごした時間の中での気づきを元に書かれていて、

中でも興味深かったのは、視覚を必要とせずとも絵画(二次元のメディア)は鑑賞できてしまうってことや、風景を経験によって捉えようとするという点です。


ここで強調したいのは、見えない人の捉え方は、

自分の立ち位置にとらわれない、俯瞰で抽象的な捉え方です。見えない人は、物事のあり方を、「自分にとってどう見えるか」ではなく「諸部分の関係が客観的にどうなっているのか」によって把握しようとする。(『目の見えない人は世界をどう見ているのか』)


今回、ここで共有しておきたかった気づきというのは、

僕たち見える人は、客観的に物事を捉えようとすると、視覚以外の情報が置き去りにされがちだってことで、

置き去りになった情報の中に、僕たちが見落とした情報がたくさん転がっているということ。

「見えてるものをそのまま認識しなさい」の、

この「見えてるもの」が指してるのは、視覚によるものだけじゃないんじゃねえか。っていうことです。



だから、(まあこれ聞いた話なんですけど)
見えない人がこんなこと言ってたそうです。

「東京の空は綺麗ですね」って。

視覚以外の情報源を持つ独自の「文化」を育んできた人たちから学べることは、まだまだたくさんありそうです。