未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

仏教の公共性とジレンマ

宗教は個人に対する救済や指針の提供など個人のレベルにおいてのみ役割を果たすもので、それが個人の枠を超えて社会通念にまで浸透しようとすると、信仰を共有しない人を排除し、多様性を脅かす脅威になりかねません。西洋の歴史を鑑みてもそれは明らかです。

各々の宗教が掲げる普遍の真理は、同じ信仰(宗教的価値観)を共有するコミュニティーでしか理解しあえません。そういった信条を社会(他者)に浸透させようとすることは、個別性の排除を引き起こし、ISや過去の日本の宗教テロのような暴力性を帯びることに繋がりかねません。


そんな中、僕が生業としている日本仏教の強みは、公共性と独自性が共存している点にあると考えています。この2つの機能をどのように社会に還元していくか、今考えていることをメモ的にアップしておきたいと思います。

仏教の公共性を担保しているものはその客観性だと考えています。つまり仏教が共有する前提が理性的なもので現代人にとって納得しやすいということです。
この客観性を支える仏教観と僕たち個人のあり方を改めて整理します。

因果律
② 主観を排除した認識

因果律 
仏教が共有する前提は神学的な超越者の存在ではなく、様々な要因が相互に影響し合うことによって生じるという縁起観です。つまり原因と結果によって成り立つ世界なんだというしごく当たり前の考え方に基づいて議論が進められます。釈迦が生まれた当時のインドは、バラモン思想によって支えられて完全な身分社会でした。つまり自分の人生は生まれた時から(もっと言えば生まれる前から)運命付けられてるんだという考えが一般的でしたが、目の前の自然も心のメカニズムも全て何らかの要因が相互に関わりあって成り立っていることを主張したため、バラモン社会に対するアンチテーゼとして位置付けられます。

② 主観を排除した認識
モノの見方に一切の解釈を加えないことも、客観性を保つ重要な役割を担います。私たちの価値観は自分の所属するコミュニティーから強い影響を受けます。僕たちは限定的な社会(ex.家族・学校・会社)の常識をそのまま享受して「人が言ってるから」「社会がこうだから」と、奴隷的に受け止めがちです。そうした暗黙のうちに形成されていった「こうであるべき」という一元的な指標が絶対的なものなのか、しっかりと検証することを求めます。


この2点をもって仏教の公共性だと断定するのは浅学な気もするんですが、いずれにせよ「縁起」を「正見」する、つまりものごとの因果関係を客観的に認識するという態度は、他者を尊重することで多様性を担保しようとする社会の中で普遍的に受け入れられるものだろうと思います。

ですがここで1つのジレンマが生じます。仏教の公共性を担保するはずの「客観的な姿勢」は、他の宗教が構築する物語を否定しかねないというジレンマです。これをどう解決すればいいのでしょうか。「これだ」という答えはないのですが、日本仏教が持つその独自性が、この問題を考える上でヒントになるかと思うので、最後にそれについて触れて終わりにします。

日本に仏教が伝来した平安時代からその後の鎌倉仏教にかけて、仏教は日本独自の発展を見せました。先に触れた通り、事実や出来事を客観的に認識すること、つまり出来事に独自の解釈を付け加えない客観的なモノの見方が従来の仏教の伝統的アプローチでした。それに対して、出来事に対して主体的に解釈を加えていく主観的な捉え方が鎌倉時代に勃興します。つまり生死を超えた大きな命の物語や、宗教的な超越者の存在を認めて、自分の生き方を捉え直す機能です。

正直に言えば、人知を超えた神様・仏様の存在は僕にとっても納得しがたいものなのですが、「生かされている」という感覚を持つ人に対して理解を寄せることはできるはずです。先日、東日本大震災から6年を迎えた日に、復興に向かって立ち上がろうと奮闘する被災者の姿を写したドキュメンタリー映画を見ましました。あの日のマグニチュード9.0の地震も大勢の人の命を奪った津波も、客観的に認識するならば起こるべくして起こった”自然災害”です。ですがその被害はあまりにも大きく、直接被害を受けた人々の人生を立ち直れないほどに狂わせました。その映画の中で何度か「生かされた」という言葉が被災者の口からこぼれます。この際何によって生かされたのかはどうでもいい話で、重要なのは、その感覚が被災者にとって「これからの私にとってあの震災はどういう意味を持つのか」という問いに真摯に向き合う十分なきっかけを果たしているのではないかという点です。

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仏教は客観的にものごとを認識しようとする公共的な役割と同時に、信仰を土台とした意味付けの原泉としての役割を共存させてきました。

時に私たちは「意味」を必要とする生き物です。客観性が個人の存在を意味付けできない以上、個人に社会的な意味付けを付与する多様な機能が存在することで、多様な個人がより積極的に社会的な活動にコミットする一助になるのではないかと思います。

さて、明日も頑張ろ。



参考文献:
1. 麻生川静男著、『本物の知性を磨く 社会人のリベラルアーツ』、祥伝社、2015年
2. 藤丸智雄編、『本願寺白熱教室』、法藏館、2015年