未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

自信と自己受容

普段の僕の生活スケジュールに
「ジムに行く」が追加されて2ヶ月ほど経ち、
通い始める前と比べて、
感覚的にも数字的にも変化を実感できて自信がついてきたのですが、

ちょっと立ち止まって考えてみると、

見た目が変わったから自信を持てたって、

ダサいなと思ってしまったんですね。

僕ってまがりなりにもお坊さんを志してるわけなんですけど、お坊さんってやっぱり生きることのスペシャリスト的なところあるじゃないですか。

そんなお坊さんが、
だんだんと引き締まってきた大胸筋を触りながら自信みなぎらせてるのってどうなんですか。
それに筋トレしてるとありのままの自分に物足りなくなってきてる、ってこれどうなんですか。

やっぱりダサいなと思いました。

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自信を持つことはもちろん良いことです。

適度な自信は、積極的な行動を促しますし、主体的な生き方の源にもなります。
ですが、移り変わりやすいものを一時的に手に入れたことによって生まれる自信は、やっぱり一時的なものです。

環境や外的な要因によって支えられた自信というのは、前提が変化してしまうと崩れてしまうものですが、
自分の内側(経験とか心とか)から出てくる自信っていうのは、多少環境が変わったり逆境に直面したりしても、すぐに崩れるものではありません。

だから他の人から高評価を得られたりだとか、一時的なものに支えられた自信っていうのは、
その熱が冷めないうちに、自分の内側から湧き上がる自信に変化させていかなければいけません。


足りないものより今あるもの

ときどき”自己肯定感”という言葉を耳にしますが、
僕が言いたいのは、たぶんこれに近いもので他人や環境に依存せずに、自分に自信を持つ(or 自分を受け入れる)ということです。

言葉では簡単に言えますが、実際に自分を受け入れるというのは簡単なことではありません。
自信のない人、自分を受け入れられない人っていうのは、他人と比較した時に目に見えるなんらかの欠陥を過大に捉えてしまう傾向があります。

本当は「人と比べんなよ」って言いたいんですけど、
本人も好きで比べてるわけじゃないと思うので、まずは欠点以外に目を向けてみることを意識してみるといいかもしれません。

僕たちは、自分に足りないものを嘆くことも、今あるものを大切にすることもできます。
幸せを感じるか不幸を感じるかの選択はあなたの手の中にありますから、後はあなた次第です。


高校サッカー部時代の友人3人と始まったジム通いのラットレース。
1人はスタートラインに立つこともなく引退を表明。

きっと彼は、筋肉を得るという一時的な快楽の虚無感を無意識に感じ取っていたのでしょう。

これからは、そんな彼を横目に見ながら、
仲間と一緒に、足りないものに心を預け、一過性の快楽に溺れていく所存でございます。