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未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

「体験してない震災」を振り返ること。

東日本大震災熊本地震、被災者の想いを風化させまいと、ここ最近、特にこの時期はさまざまなメディアの中でいろんな声に触れることができます。
被災した方の声に耳を傾けると、この言葉が頭をよぎります。

「形あるものはいずれ朽ちる」

似たような言葉は聞き飽きるほど耳にしてきましたが、やっぱりこれは真理をはらむ言葉だと思います。
僕たちがこの言葉を本当の意味で実感するのは、幸か不幸か、自分が、その大切なものを失ったときのようです。

世の中は、いろんな言葉で溢れかえっています。
今の言葉もありきたりすぎて普段の僕では、なかなか実感を伴いません。

居酒屋のトイレに無数に鎮座する格言めいた言葉たちは、どれも形骸化してしまっています。

けれど
ありきたりな言葉にしっかり耳を傾けてみると、やっぱりその言葉が広く流布した理由があるわけで、
震災のような自分の生き方を見直さざるを得ない出来事が、「日常」に溶け込んでしまっている自分の姿というものを激しく浮かび上がらせます。

言葉の真意を聞き取るためには、その言葉と出会うためのストーリーが必要なのでしょう。


話は変わらないようで変わりますが、
震災での体験や経験を社会の中に蓄積していくことは、自然災害とうまく付き合っていかなければならない僕たち人間の生存にも関わる重要なミッションです。

無論、将来世代だけでなく、今を生きる僕たち個人にとってもその蓄積は、時折「人生」を見つめ直す大切なきっかけの1つになり得ます。

ですが震災の当事者にとっては、この限りではないということを先日知りました。
予告なく自分の大切なものを奪い去る災害は、僕たちにその心の準備をさせてくれません。

災害の渦中にいた人たちの中には、災害と感情としての「恐怖」が直結してしまっている方も少なくないようです。
そこから時間をかけて、ゆっくりと立ち上がることのできる人もいらっしゃいますが、必ずしも全員がそうではないということは心の隅に置いておくべきでしょう。それらを経験をしたことのない僕にとって、その怖さというのは想像の域を出ませんが。

逆説的ではありますが、
だからこそ、幸いなことに震災の渦中になかった僕たちに出来ることは、
見聞きした経験を蓄積して来たる震災に備えることと、そして何よりそこで得られた気づきを今日の自分に還元していくことなんだろうと思います。

足りないものより今あるもの できないことより今できること