未来の坊主のたわごと

1992年生。お坊さん見習いやってます。

有機的な人とのつながり

今日は、大叔父の三回忌の法事から1日が始まりました。
今回は僧侶側ではなく、親族側で法事に参列したんですけど、20分くらいの法事だったかな。そのことについて書きたいと思います。

大叔父は僕の祖父の弟で、生前は僕もお世話になってて、何度かうちに顔を出してくれることがあったんですけど、僕とは挨拶を交わす程度でした。

そんな大叔父の法事なんですが、
普段の法事はお経に集中しているし、法事の最中は後ろにいる参列者の様子を見ることはできないので、今日は一番後ろに座って、ゆっくりとその様子を眺めることにしました。

参列者の中には僕とそれほど年が変わらない人が何人かいました。
20代半ば〜30代前半くらいですかね。初めて会う人ばかりでした。
そんな中、1人の男性が話しかけてきてくれました。歳は34。僕より10歳上です。

「久しぶりやね。すごく大きくなったね。」
「は、はぁ....。」

どうやら僕がまだ小学生だった頃、バイクかなんかでうちを訪れたことがあったそうで、その時僕と一緒に遊んだそうなんですけど、正直全く覚えてません。
だけど、物腰が柔らかく明るい方だったおかげか話が弾みました。ほんの数分程度の会話だったんですけど、楽しい時間でした。

「俺、こんな人とつながってんのか。」

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仏教では、世の中は5つの要素から成り立ってるんだ、って説明します。
ちょっと難しい概念で、僕自身完全に咀嚼できているわけではないんですけど、
それは、目に見えるもの(1つ)と目に見えないもの(4つ)を指します。

※これは五蘊という概念で、色/受/想/行/識の5つのことで、物質的なもの(色)と精神的なもの(受/想/行/識)というふうに体系化されるんですけど、
例えば「色(シキ)」というのは、僕らが見たり、触れたり、感じたりできるもので、歩くやかがむといった動き(運動性)も含まれると言うように、結構ややこしいので、また別の機会にシェアしたいと思います。


目に見えないものってのは、痛みとか幸せとか思考とか、簡単に言うと、心や脳の働きに関連するもののことだと言えます。

なんで、今これを書いたかというと、
今日、それを実際に肌で感じたからなんですけど、

僕たち現代人の感覚からいうと、
人間死んだら終わりっていう認識は少なからず、あるような気がします。
魂とか天国とか地獄とかってイメージはできるものの、その存在を信じてるのかと問われると返答に困りますよね。

大叔父は2年前に亡くなっています。
遺体も焼いて納めたので(目に見えて)残っているものはお墓の中にある骨くらいでしょう。

ここで言いたいのは魂とか霊魂とかそういう話なんかじゃなくって、の話です。

ご縁っていうのは、(正しくは因縁生起(インネンショウキ)って言うんですけど)
全てのものは、必ず有機的に繋がっていて、相互に影響し合っているっていう考え方です。

大叔父は2年前に亡くなっています。
僕は、大叔父と2人でゆっくりと話し合った記憶も全くない。
それでも、亡くなったはずの大叔父を中心とした人とのつながりが、
法事という場ではあれ、まさに今を生きている僕の目の前にあって、
僕はその懐かしい出会いや、新しい出会いを体験したっていう事実があります。

先ほど、世の中には目に見えるものと目に見えないものがあると書きました。

目に見えるものは風化し、いつかは無くなってしまいます。
けれど目に見えないものってのは、形を変えながら、思わぬところに広がり続けてくような気がします。


人間精一杯生きてたら、死なんかじゃ到底終わることのない物語があるんだなと感じました。

僕にもあるんですかね。


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五蘊の想(概念化)についてはここで簡単にまとめてるんで、ぜひ読んでみてください。

yosh1nobu.hatenablog.com